ザ・マジックアワーの紹介:2008年日本映画。三谷幸喜が監督を務め、佐藤浩一、妻夫木聡、深津絵里などをはじめとした豪華キャストが演じる爆笑コメディー。売れない役者が、ひょんなことから、裏社会の抗争に巻き込まれていく様子をコミカルに描いています。
監督:三谷幸喜 出演者:佐藤浩市(村田大樹)、妻夫木聡(備後登)、深津絵里(高千穂マリ)、西田敏行(天塩幸之助)ほか
映画「ザ・マジックアワー」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「ザ・マジックアワー」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「ザ・マジックアワー」解説
この解説記事には映画「ザ・マジックアワー」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
ザ・マジックアワーのネタバレあらすじ:命が助かる唯一の手段
クラブの支配人の備後は、裏社会のボスである天塩の愛人マリに手を出したことから、命を狙われます。助かるための唯一の方法は、伝説の殺し屋である「デラ富樫」を探し出すことでした。期限は5日でしたが、一向に手掛かりはつかめません。困窮した備後は、無名の役者である村田を殺し屋に仕立て上げるという苦肉の策を考え付き、映画を撮影するという口実で、村田とマネージャーの長谷川を港町まで連れていきます。
ザ・マジックアワーのネタバレあらすじ:偽の殺し屋を演じた無名の役者
映画の台本がないことに、長谷川は不審がりますが、初めての主演映画に村田は意欲満々です。備後は、村田を天塩のところに連れていきます。何も知らない村田は、自分の演技を堂々と演じます。すっかり村田を気に入った天塩は、村田を雇うことを決めます。対立する組織が「デラ富樫」を雇い天塩を暗殺しようと知っていた天塩は、デラ富樫を味方につけることで、自分の命を守ろうとしていたのでした。
ザ・マジックアワーのネタバレあらすじ:嘘がばれたとき
マリは、村田が偽物であることを知っています。命拾いをした備後に、逃げるように勧めますが、備後は村田の身を案じてなかなか逃げる決心がつきません。もたもたしている間に、村田が偽物であることが天塩にばれてしまいます。備後は、天塩の前で死んだふりをすることで窮地を回避しようとします。村田は、知り合いに協力を依頼し、天塩を騙す準備を始めます。演技が始まったとき、思いがけないことが起こります。対立する組織に権力を握られてしまった天塩が、死にたいと言い出したのです。天塩の苦悩を知ったマリは、天塩と一緒に逃げることを決めます。
ザ・マジックアワーの結末:ザ・マジックアワー
拍子抜けしてしまった村田達の前に、本物の「デラ富樫」が現れます。「デラ富樫」の正体は、船医をしている清水という男でした。村田が自分に扮したことに、清水は怒ります。村田たちは、指を動かすだけで爆発をさせるという芝居を打ち、清水を撃退します。無事に役を演じきった村田は、役者としての喜びを感じ、役者を続けることを強く決意するのでした。舞台のセットが組まれるシーンで物語は幕を閉じます。
以上、ザ・マジックアワーのあらすじと結末でした。
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ザ・マジックアワーのレビュー・感想
三谷幸喜はやっぱり舞台の人なんだろう。舞台人がテレビや映画にパフォーマンスを広げて、それぞれの世界を縦横無尽に結びながら、やっぱりベースは舞台。彼しか創れないステージが真ん中にあって、三谷監督らしいドタバタ喜劇の世界が、時にスクリーンから大脱線しながら駆け抜ける。
であるからこそ、映画を愛する人には、拒絶反応が出るかもしれない。あざといドタバタにノリ切れないと、ザ・マジックアワーは俄然詰まらぬ二流作品に映るだろう。ドタバタと同じテンションを観客に求め、一緒に楽しむ事を強要する。ザ・マジックアワーの中に、演劇があり、フィクションとノンフィクションが裏表に急転開。その境界は本当に危うく、ジェットコースターのような急上昇と急降下が繰り返し、めまいがするほど。時に、演出過多、演技過剰と感じるのも、まさに三谷監督を震源とする、ザ・マジックアワーのテンションそのものなのだ。
ザ・マジックアワー公開当時、三谷自身のプロモーション活動もやり過ぎと批判を浴びた。映画とプロモーションを区切る事さえ、ナンセンスなのかもしれない。ザ・マジックアワーの全編にちりばめられた、あざとい小技を大いに評価し、なんて楽しい映画なんだっ!と、自らを高めて鑑賞することをお勧めする。ザ・マジックアワーはノリノリで観ないと楽しめない。ノリがマッチすれば、観終わった時、ジェットコースターから降りたときの脱力感を味わえる。
「ザ・マジックアワー」感想・レビュー
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三谷幸喜監督の映画は、「The 有頂天ホテル」以降、作品としての作りが大掛かりになり、華やかさを増してきた。
それと同時に、彼なりの視点と手法で、巧妙に再構築されているとはいえ、全盛期のハリウッド映画への隠しようもない憧れを吐露するようになってきたと思う。その結果、いかにも映画的な趣向を演劇的なアプローチで解体、再構築し、結局のところ「三谷幸喜映画」以外には表現の仕方を思いつかない世界ができあがってくるのだ。
我々映画好きは、彼の映画がそういう作品になっている事を了解の上、むしろ、それを積極的に楽しもうと三谷映画を観続けるのだ。
彼の監督4作目となる、この「ザ・マジックアワー」では、成城の東宝スタジオに巨大な街のセットを組んで、遠い映画の記憶の中にだけ存在するかのような、人工的な映画空間を構築した上、日本人キャストをずらりと並べて、街を牛耳るギャングと、殺し屋役として雇われた、三流役者の無国籍風ドタバタ喜劇を描いている。
もちろん、物語の都合で作りあげた世界と登場人物を人工的な箱庭に閉じ込めて、「こういうお約束ですから、それに則って楽しんで下さいね」という「ごっこ遊び」であることは、この作品を演劇的だと言わせる最大の要素であるのは言うまでもない。
もちろん、笑いをとるために考えられたギャグの一つ一つが、これ以上ないほどに、わざとらしく作りこまれたネタであることもそうである。
しかしその一方で、大掛かりなセットの中を自在に動き回るカメラと、そこに刻まれた場面の一つ一つには、監督の脳裏に焼きついて離れないであろう、かつて見た「映画らしい映画」の記憶がそこここに染み付いていて、それを演劇的というにはあまりにも映画的ではないのか、と思わされるのだ。
この、演劇的なるものと映画的なるものが混在する人工的な”ごっこ遊びの世界”という観点で、この作品はそれまでのどの作品よりも徹底しているし、そういう意味では、三谷幸喜が作ってきた路線の一つの到着点であると思う。
しかし、なんだかんだいって三谷監督は映画好きの心をくすぐるのが実にうまい。
だいたい映画好きというものは、バックステージものが好きだ。だから、「究極のごっこ遊び」としての映画製作(の真似事)を話の中心に持ってきて、映画の中のお話と、人工的なセットの中で「ごっこ」遊びに真剣に興じる監督やスタッフ、役者たちの姿と重なってくるあたりの見せ方は、もはや定番といえるほど使い古された手法でありながら、やはり乗せられてしまうのだ。
次々と登場する、華やかな役者たちの贅沢な使い方も、この作品の見所だ。
彼らにセルフパロディを演じさせたかと思えば、他の作品では見られないような表情を引き出してみせるあたりの技は、言うまでもなく三谷幸喜のお得意とするところであるのだが、いつもながら素晴らしい。今回も、今後、語り草になるであろう佐藤浩市のコミカルな一面や、私にとって、そのわざとらしいオーバーアクトが好きになれない役者の筆頭である西田敏行を、前作に続き、脇で巧みに使いこなしているところなど、見どころ、笑いどころが満載なのだ。
ただ、この作品、このジャンル、この内容にしては、少々長すぎると思う。
何もかも詰め込んで、楽しませてやろうというサービス精神は、誠に立派なものだと思うが、ドタバタコメディで136分というのは、あまりにも長すぎる。サービス精神と思い入れとの両方で、ついつい、切れなくなってしまったことは想像できるのだが、実際に中盤から後半にかけてだれる部分も少なくなかった。
これをあと30分くらい短くして完成させられないところが、今の、この人の限界なのかなという気がするのだ。
これは本人の責任ばかりでもなく、結局、ヒットメーカーとして、人気者として、あまりにも大きな存在になってしまった彼に、誰も彼のやることに口を出せない状況があるのではないか等と、危惧するのだ。
出演者の豪華さ、このレトロな雰囲気、映画の撮影だと思っている村田とヤクザ達の噛み合い具合の素晴らしさ、映画にかける役者の熱意、最後には悪役もみんな幸せになるハッピーエンド。
三谷幸喜の世界、素晴らしすぎる✨
もう引き込まれた!
ただのコメディーではなくて、感動するところもたくさんあったし、いろいろ考えさせられるところもあった。
たくさん笑えて、感動して、最後には心の中に何か温かいものを残していってくれる。そんな映画だった!!