東京暮色の紹介:1957年日本映画。小津安二郎にはめずらしい、窓の外に雪の舞う冬に季節を設定した作品。小津の最後の白黒映画になった。杉山周吉の長女は結婚生活の危機を迎え、次女は不実な恋人を追いかける。そんな時、戦前に家族を捨てた、二人の母親の消息が分かる。
監督:小津安二郎 出演者:原節子(沼田孝子)、有馬稲子(杉山明子)、笠智衆(杉山周吉)、山田五十鈴(相島喜久子)、田浦正巳(木村憲二)、杉村春子(竹内重子)、中村伸郎(相島栄)その他
映画「東京暮色」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「東京暮色」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
東京暮色の予告編 動画
映画「東京暮色」解説
この解説記事には映画「東京暮色」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
東京暮色のネタバレあらすじ:娘たち
銀行監査役の杉山周吉の家に、大学教員で評論家の沼田康雄に嫁いでいる長女の孝子が一人娘を連れて帰ってきた。彼女は夫との不和のせいで別居することにしたのだった。
周吉にはさらに心配事が増える。会社を経営する妹重子が銀行に寄ったついでにいっしょにうなぎ屋で昼食をとるが、周吉と同居する次女の明子が彼女に5000円の借金を頼みに来た話をする。妹は使途を話さない明子に金を貸さなかったと言うが…。
東京暮色のネタバレあらすじ:明子を知る麻雀屋のおかみ
英文速記を習っている明子には大学生の木村憲二という恋人がいる。そして憲二のアパートの住人の男たちとも仲良くしているが、周りの大人は彼女を「アプレ」と言い、仲間の男たちは彼女をアバズレだと思っている。明子は重大な用事で憲二を探して壽荘という麻雀屋に来る。憲二の友人川口登が明子のことを知っているおかみさんがいると言っていた店である。そのおかみさんは明子が幼いころ、一家が雑司ケ谷に引っ越す前、近所に住んでいたと言う。明子の兄が昭和26年に谷川岳で死んだことを知って狼狽する。
東京暮色のネタバレあらすじ:堕胎
明子は憲二の友人富田三郎がバーテンを務める店でやっと憲二に出会う。明子は妊娠したことを憲二に話すが、憲二は煮え切らない態度を取る。夜9時半頃にまた会う約束をする。だが、9時半になっても憲二は来ない。明子は若い女が一人で深夜に喫茶店にいることをとがめられて警察に補導されるが、そこにいた理由を父や姉に話すことはなかった。
杉山家に重子が明子の縁談をもってくるが、そのついでに彼女はデパートで偶然孝子たちの母、喜久子と出会った話をする。周吉が京城(ソウル)支店にいた時に、留守宅の世話を焼いてくれた山田という銀行員と結ばれて大陸に渡った喜久子。だが、山田は死に、一昨年別の男と東京に引揚げて麻雀屋をやっていることがわかる。孝子は明子から聞いたことのある麻雀屋のおかみとわかり壽荘に行き、久しぶりに会った母に、明子には自分が母であることを話すことのないように言い渡す。
明子は産婦人科で女医に中絶手術をしてもらう。父はパチンコ屋で会った旧友から、旧友の妻が明子に金を貸したことを知るが、それが中絶費用だとは知ることがなかった。
東京暮色のネタバレあらすじ:汚れた血
憲二を探しに行った壽荘で明子は、明子が妻の娘とはつゆ知らぬ壽荘の主人から姉の孝子が明子を探しに来ていたという話を聞く。帰宅した明子は姉を問いただし、壽荘のおかみが自分の母であることを聞き出す。明子は、父は自分の本当の父ではないのではないか、自分には母の汚れた血しか流れていないのではと疑問をもって、壽荘に母に会いに行く。喜久子は近所の居酒屋に行き、娘と二人きりで話す。最初は娘の来訪の意図がよくわからなかったが、明子に父親は周吉であると断言する。
東京暮色の結末:明子の死
行きつけの中華料理店で明子はやっと憲二に再会するが、明子から逃げていたくせに明子をさがしていたと憲二は嘘をつく。腹を立てて店を出た明子は近くの踏切で列車にはねられてしまう。病院に駆けつけた父と姉に明子はうわごとのように「死にたくない」、「出直したい」と言う。
喪服の孝子が壽荘を訪れ、喜久子に明子が死んだことを教える。驚く喜久子に孝子は「お母さんのせい」と言って去っていく。酒で悲しみをいやそうとする喜久子。東京は嫌になったと言い、友人の紹介のある室蘭の会社に就職したいと言う夫に従うことにする。
喜久子は明子の霊前にたむける花束をもって雑司ケ谷の家を訪れる。無言の孝子に午後9時半の列車で東京を立つことを言って帰る。喜久子はもしや娘が見送りに来ないかと上野駅で列車の窓を開けているが、望みはかなわなかった。その頃、孝子は父に、自分の娘に明子のような寂しい思いをさせないために沼田のもとへ帰ることを言う。
元通り家政婦を頼んだ雑司ケ谷の家から周吉はいつも通り銀行へ出勤する。
「東京暮色」と言うこのユニークな作品をいったいどのように捉えてどう評価すべきなのか。私は大いに迷った挙句、全く新たな視点に立って深読みすることに踏み切った。個人的にはこのひときわ異彩を放つユニークな作品は、映画史(小津映画の系譜)における或る意味での貴重な「資料」だとも考えている。「東京暮色」は小津安二郎の代表作ではないが、凡作や駄作や失敗作ではなくて実験的な意欲作であり非常にユニークな「傑作映画」でもある。時には不快さをも伴う小津のこの異色の脚本と演出には正直言って面食らった。冒頭のシーンでは居酒屋の酔客が女将に向かって「オバハン」っと連呼する。また、場末のバーでは明子(有馬稲子)の知人のバーテンダーが明子のことを「ズべ公」だと断言する。更には孝子の夫の沼田康雄が義父の周吉に「親子の愛情と言うものも、考えて見れば一番プリミティブな動物本能だと思うんですがねえ」っと平然と言ってのける。期せずして冷水を浴びせられた周吉はすぐさま話題を変える。短いシーンではあったが、互いに噛み合わない会話の連続はシュールであり「不条理」でもあった。不条理と言えば、この映画の全体を覆ているものの正体もまた「不条理」なのである。そしてこの不条理こそが「東京暮色」の根底に流れている「通奏低音」でもあるのだ。この映画は杉山家の3人の目を通して、孤立せざるを得ない人間の宿命と孤独感を描いた群像劇(ビターなホームドラマ)である。杉山家の3人の思いも行動も常にバラバラで、杉山家の親子関係も沼田家(長女)の夫婦関係も既に破綻していて、家庭はもう「崩壊寸前」なのである。周吉(父)も孝子(長女)も明子(次女)も3人が3人とも違う方向を見ていて、決して互いの視線を合わせようとはしない。3人ともに頑固であり冷淡であり妙によそよそしいのである。この不協和音を奏でる「現代音楽」のような冷徹さは一種のホラー映画のようにも思えるのだ。「暮色」とは本来は暮れなずむトワイライトタイムのことを指す。しかしこの作品では暮色なんかではなくて、鑑賞者の意に反して常に漆黒の闇が全体を覆いつくしているのである。その漆黒の闇に潜む不快で醜い「ドロドロ」としたものを小津は描こうとしたのではないだろうか。その不快で「ドロドロ」としたものの正体は人間の「猜疑心」であり「業」であり「煩悩」である。そしてまた明子(有馬稲子)が抱える「心の闇」も、この映画の重要な柱になっている。次女の明子は父にも姉にも心を許さず決して本心を明かそうとはしない。頑なに口を閉ざして自分の殻に閉じこもる。つまりは誰も信用できなくなったのである。そして、とうとう明子は自分の心の奥に怖ろしい「爆弾」を抱え込んでしまったのである。小津安二郎はこの映画で、お腹には尊い命(胎児)を宿し、心の奥には爆弾を抱えてしまった明子の矛盾した「悲劇」と「葛藤」を冷酷なまでにリアルに描いてみせた。従来の「小津調」のセオリーの一部を自らが破ることで、敢えて「予定調和」を犠牲にしてまで小津がどうしても描きたかった世界がここにはある。寒々とした東京の空と風景がモノクロ画面に映し出される。季節は 正に寒さの厳しい冬であるが、明子が寒空から帰宅しても家庭のどこにも温もりはなかった。姉も父も建前(世間体)ばかりを押し付けて、明子の心を解きほぐそうとはしない。だから明子はこの家庭(杉山家)には居場所がなかったのだ。父の周吉は明子に、学校・習い事・資格・就職・結婚、っと世間体だけを重視して、明子には自分の価値観のみを一方的に押し付けようとする。周吉は明子の気持ちや希望には無頓着で、世間体や形式にのみ固執するのである。周吉のように人生のプロセスを軽視して先回りして人生に結果ばかりを求めると、実りのない殺伐とした荒野と無機質な「すれっからし」の人間関係に失望することになる。だから結局、父(周吉)は一番大切なことを学ぶことも教えることも出来なかった訳である。だから明子は周吉にも孝子にも強烈な違和感と不信感を募らせてゆく。そして父と姉に相対する時に及んでは、明子は遂に激しい憎悪の目を向けるようになったのだ。これは正に人生における「修羅場」である。そしてこの映画では更なる「修羅場」が待ち受けている。実母(山田五十鈴)と孝子(原節子)が再会を果たした場面もまた修羅場である。普段は至って温厚な孝子が実母を睨み付けて罵倒する時の、あの孝子の「鬼の形相」が誠に怖ろしい。原節子のこんなにも怖い演技を私は初めてみた。また、卑怯で頼りない恋人の木村(優さ男)を本気で張り倒す明子の怒りは、怖さというよりはむしろ痛々しいほどであった。結果として明子は踏切事故により「非業の死」を遂げてしまう。それが事故か自殺かは別にして。 最終的に私の結論を言えば、この作品は小津の描く一種の「パラレルワールド」であるということに尽きる。たとえ小津の他の作品と同じ景色や家族構成であっても、小津映画の常連の俳優女優が出ていても「どこかが違う」のである。否、否、どこかではなく全く異なった世界が描かれているのだ。ゆえに、「東京暮色」は小津映画のもう一つの顔であり、他の小津作品とは決して相容れない「パラレルワールド」であると私は確信している。