世にも怪奇な物語の紹介:1967年フランス,イタリア映画。世にも怪奇な物語の紹介:1967年フランス、イタリア映画。エドガー・アラン・ポーの短編小説を原作としたオムニバス作品。高慢な女の歪んだ愛と破滅を描く「黒馬の哭く館」、ドッペルゲンガーの怪奇譚「影を殺した男」、悪魔に魅入られた男の狂気を描く「悪魔の首飾り」の三部構成となっている。
監督:ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ 出演:ジェーン・フォンダ(フレデリック・メッシェンゲルシュタイン)、アラン・ドロン(ウィリアム・ウィルソン)、テレンス・スタンプ(トビー・ダミット)ほか
映画「世にも怪奇な物語」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「世にも怪奇な物語」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「世にも怪奇な物語」解説
この解説記事には映画「世にも怪奇な物語」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
世にも怪奇な物語のネタバレあらすじ:「黒馬の哭く館」
22歳の若さで莫大な遺産を相続したメッシェンゲルシュタイン伯爵家の女主人フレデリック。彼女はその富と地位で毎日を自由気ままに過ごしていました。ある日、夜明けに悪夢を見たフレデリックは、大勢の取り巻きを連れ幼少期を過ごした城へ向かいます。男女構わず寝床を共にし、残虐な遊びを楽しむなど淫蕩に耽るフレデリック。不興を買うことを恐れ誰も彼女に逆らいません。貧しい分家ベルリフィジング家の当主ウィルヘルムだけが公然とフレデリックを批判していました。そんな2人が偶然森の中で出会います。初めてウィルヘルムを間近で見たフレデリックは心惹かれ、自分の城へ招待します。けれどウィルヘルムは「お門違いです」と断りました。プライドを傷つけられたフレデリックは、ベルリフィジング家の厩に火を放つよう従者に命令します。ちょっとした復讐のつもりでしたが、ウィルヘルムは愛馬を助けようと厩に飛び込み焼死してしまいました。一方、メッシェンゲルシュタイン家の城に1頭の黒馬が迷い込みます。非常に気性の荒い馬でしたが、フレデリックにだけは不思議と懐きました。ウィルヘルムの死を知りショックを受けたフレデリックがフラフラと部屋へ戻ると、タペストリーの黒馬の部分だけが焼け焦げていました。その日を境にフレデリックの心は恐怖に脅かされ、ひたすら黒馬を乗り回す日々が続きます。そして運命の日、雷鳴に跳ね起きたフレデリックが外を見ると、平原が燃えていました。フレデリックは黒馬に跨り城を出ます。馬は燃えさかる炎の中を突き進み、やがてフレデリックも死を迎えるのでした。
世にも怪奇な物語のネタバレあらすじ:「影を殺した男」
1人の男がミサ直前の教会に駆け込んできます。男の名はウィリアム・ウィルソン。神父を懺悔室に押し込んだ彼は「人を殺した」と告白します。事の発端は寄宿学校時代まで遡ります。ウィルソンはサディスティックで冷酷な少年で、いつも級友と数人がかりで陰湿ないじめを行っていました。それをやめさせたのはウィリアム・ウィルソンという新入生でした。見た目も自分にそっくりな彼をウィルソンは分身のように感じ、彼の首を絞めるなど問題行動を起こします。結局2人のウィリアム・ウィルソンは放校になってしまいました。数年後、ウィルソンは医学校に入学します。人体解剖に並々ならぬ興味を抱くウィルソンは、ある夜町で捕まえた女性を裸にして台に縛り付け、その体にメスを滑らせていきます。そこへ分身のウィリアム・ウィルソンが現れ悪行をやめさせます。その後ウィルソンは大学を辞め軍に入りました。ある夜、賭博場で美女から侮辱を受けたウィルソンは、彼女とカードゲームを行います。イカサマで勝利したウィルソンは仲間の前で女性のドレスを脱がせ、裸の背中に鞭を打って楽しみました。そこへやって来たのは、またしても分身のウィリアム・ウィルソンです。彼はウィルソンのイカサマを暴きその場を去りました。ウィルソンは女性に平手打ちされ、上官からは絶縁を言い渡されます。全てを失ったウィルソンは分身を追いかけ、短剣で彼の腹部を数回に渡って刺しました。倒れた分身は「私が死ねばお前も死ぬ」と言い絶命します。ウィルソンはその足で教会へやって来たのでした。高慢から生まれた幻覚だと言う神父に罵声を浴びせたウィルソンはハシゴを上り、教会の塔から投身自殺します。彼の遺体の腹部には分身に刺したはずの短剣が突き刺さっていました。
世にも怪奇な物語の結末:「悪魔の首飾り」
かつてイギリスで名を馳せた俳優トビー・ダミットがローマの空港に降り立ちました。彼は現在麻薬とアルコールに溺れ、満足に仕事も出来ない状態でした。彼がローマにやって来たのは映画の出演オファーがあったからです。スパニャ神父を筆頭に撮影クルーがダミットを出迎えます。神父達はカトリック西部劇を作りたいと息巻いていました。報酬は最新型のフェラーリです。喧騒に満ちた町の中を車で移動しながら、ダミットは空港で見た少女を思い出していました。大きなボールで遊ぶ不思議な少女は何度かダミットの前に姿を現していました。スタジオに移ったダミットはインタビュー番組の撮影に入ります。彼はインタビューを受けながら、神は信じないが悪魔なら信じると答えます。自分が見た悪魔は可愛くて陽気だったと話しながら、ボールを持つ少女を思い出すダミット。やがて舞台は変わり、イタリアのオスカー授賞式が始まりました。不安や苛立ちから酒を飲み続けたダミットはその場を逃げ出し、用意されていたフェラーリに乗って走り去ります。夜のローマを猛スピードで駆け抜けるダミット。通行止めのガードを破壊し車から降りると、「一体どこへ行くんだね」と男の声が聞こえます。その声は、橋は通れないから回り道をするようにと叫びます。ダミットが立つ橋は途中で崩落していて、分断された橋の向こう側にはボールで遊ぶ少女の姿がありました。フェラーリに乗り込んだダミットは一度バックして車を止め、狂ったように笑いながら猛スピードで橋の上を疾走します。夜の闇に消えるダミット。彼が車を走らせた先には通行止めのワイヤーが張ってありました。少女のボールが転がった先にダミットの首が落ちています。少女は笑いながら生首を鷲掴みました。
以上、映画世にも怪奇な物語のあらすじと結末でした。
【悪魔の首飾り】 〈 幽霊が見た悪夢の話 〉 今回は「世にも怪奇な物語」の中の第3話 「 悪魔の首飾り 」の映画レビューと、それに関連する他の作品や私の世界観などについて語りたいと思う。 第1話のロジェ・ヴァディムの「黒馬の哭く館」も、2話目のルイ・マルの「影を殺した男」もそれなりの雰囲気を出していて悪くはなかった。 しかし第3話のフェデリコ・フェリーニの「 悪魔の首飾り 」は他を寄せ付けない「圧巻の傑作」なのである。 何しろこの短編はフェリーニの映画人生における全24作品の中でも出色の仕上がりをみせたからである。 余談になるがフェリーニの短編映画といえば、1962年の「ボッカチオ70」の中の第2話「アントニオ博士の誘惑」(艶笑喜劇)もスパイシーかつアイロニカルで中々面白かった。 それでこの「悪魔の首飾り」(原題:Toby Dammit)は、私が中学1年生の時に「月曜ロードショー」(1972年4月放送 「世にも怪奇な物語」)で見たのが最初である。 その後はテレビの再放送で2~3度くらい見たのだと思う。 この不可解で幻想的な作品の「不快な映像」と「グロテスク」な人物描写は正に「悪夢の世界」そのものでもある。 そしてこの映画はトビー・ダミット自らが墓穴を掘り、深みにハマり、どんどんと追い詰められてゆく恐怖を描いた「極めつきのホラー映画」なのだ。 「顔面蒼白」で生気のないこの男は、もはや「既に死んでいる」と言ってもよいだろう。 ダミットは空港で見た光景にも、ローマ市街やテレビ局で逢った人物にも、尋常ではない「違和感」を覚え「不協和音」を発する。 その先に死を見据え「己の狂気のみ」に溺れる男には、もはや生身の人間の営みは響かず、幻想の中の住人(死神)のみが「リアリティの源泉」なのである。つまりこの映画の意味するところは、ダミットという生ける屍(亡者)の「幻想譚」であり、究極的には「幽霊が見た悪夢:予知夢」と言うことになる。 ところでこのトビー・ダミットと称する「ジャンキー(中毒患者)」は、「空想の世界」でしか生きることが許されないのである。 より客観的かつ冷静にこの映画をみれば、現実世界との接点を失った「過去の俳優の哀れな末路」ということにもなる。 よくよく考えてみたら、オペラのテノール歌手やハリウッド映画の二枚目俳優などの「自尊心と傲慢」さは「必要悪」なのかも知れない。 この映画の中のダミットがその典型であり、彼は唐突に「空中浮揚」してそのまま何処かへ飛んで行きそうな勢いなのである。 かようにヒーローを演じる役者の多くは、勢い余って舞い上がったり「神がかる」こともあるということだ。 悪魔の首飾りの「ダミットの悲劇」は、天空を飛翔した「イカロスの悲劇」とも重なる。 ダミットはフェラーリで「暴走したことで斬首」され、天空高く飛び過ぎたイカロスは「太陽に焼かれて墜落死」する。 また、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」の中でこんなシーンとセリフがあった。旅に出ていた中砂(原田芳雄)が、シンナーを吸引して子供の門づけに接近する、すると子供たちから「いま、鬼が通りましたよ」と言われてしまう。いやはや遠征中のこの時の「青ざめた中砂の形相」は「鬼畜」であり、まさに怖ろしい「鬼そのもの」なのである。 深夜の市街でフェラーリに乗って奇声を発し、「咆哮を上げるダミット」もまた完全なる「鬼畜」と化していた。 我が最愛のテレビドラマ「ウルトラQ」の第28話、「あけてくれ!」(1967年12月14日放送)では、現代人の悲劇的な結末を「異世界への移住」という「現実逃避」の形で描かれた。 現実逃避の「究極の選択」と言えば、「失踪」(家出)と、それに伴う「自死 」(自殺)の先にある「あの世」、すなわち「黄泉の国への移住」ではないだろうか。 ダミットも希望通りに「黄泉の国への移住」を果たしたのである。 レビューの最後に余談(エピソード)をもうひとつ。 白いボール(手毬)を持った「例の美少女」(死神)の白い顔と不気味な笑顔は最高に怖かった。何度見ても怖すぎて、アップになると少女の顔を「正視できなかった」のである。 これには音楽評論家で「ロッキング・オン」の代表者でもある渋谷陽一氏も全く同意見であった。