沈黙 -サイレンス-の紹介:2017年アメリカ映画。遠藤周作の小説「沈黙」を、マーティン・スコセッシ監督が映画化。キリシタン弾圧の中で棄教したとされる師、フェレイラを捜すために、同僚のガルぺと共に日本に密航した宣教師ロドリゴ。彼の前に繰り広げられるおぞましいキリシタン迫害。しかし、神は「沈黙」を続けるままである。
監督:マーティン・スコセッシ 出演:アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゴ神父)、アダム・ドライヴァー(ガルペ神父)、浅野忠信(通辞)、窪塚洋介(キチジロー)、リーアム・ニーソン(フェレイラ神父)、イッセー尾形(井上筑後守)ほか
映画「沈黙 -サイレンス-」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「沈黙 -サイレンス-」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
沈黙 -サイレンス-の予告編 動画
映画「沈黙 -サイレンス-」解説
この解説記事には映画「沈黙 -サイレンス-」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
沈黙 -サイレンス-のネタバレあらすじ1:日本へ
神父・修道士5人が雲仙で熱湯を徐々に浴びせられる拷問に耐えている。これを報告した手紙が届いた後イエズス会士のフェレイラ神父の消息は絶えていた。1640年、彼が日本でキリスト教を捨てたという噂があると言われた弟子のロドリゴとガルぺは、ヴァリニャーノ院長に懇願して日本行きを認めてもらう。厳しいキリスト教禁教政策の続く日本に渡るのはとても危険だったが、マカオで密航船と通訳に使える日本人が見つかる。しかしその日本人漁師キチジローは汚い飲んだくれでキリシタンなのかどうかもあやふや。ガルぺはその男を疑っている。日本に上陸したが、キチジローは二人の神父を残して先へ行ってしまう。彼は本当に信用できるのか。
沈黙 -サイレンス-のネタバレあらすじ2:キリシタンの村
夜、海辺に隠れていた二人の神父に一人の老人が近づく。それはトモギの村で、キリシタンのリーダーとなり、モキチたち村人から「じいさま」と慕われている老人、イチゾウだった。キチジローはちゃんと仕事をしてくれたのだった。パードレ(神父)が現れることを心待ちにして密かに信仰を守ってきた人たちの大歓迎を二人は受ける。夜が明けて山の炭焼き小屋に移動する。昼間は小屋に隠れ、夜に罪の告白を聞いてそれに赦しを与える告解や、ミサを執り行う生活が続く。貧しい村人たちの信仰は熱烈だが厳しい迫害のために他の地域のキリシタンとの交わりはなく、フェレイラの情報も得られなかった。ある日、いつもの合図なしにパードレを呼ぶ声がする。最初は罠かと思ったが、それは自分達の村にもパードレたちに来てほしいと願う五島の人たちだった。ロドリゴが船で五島へ向かう。そこはキチジローの故郷であり彼が故郷の人たちのために、パードレがトモギに来たことを教えたのだった。キチジローはかつて、彼自身は踏み絵を踏んだために処刑を免れたものの、彼の家族が皆踏み絵を踏むことを拒否して焼き殺されるのを目撃するという悲惨な体験をしてきた。五島では多くのキリシタンに出会い、その中にはフェレイラに会ったことのある人もいた。
沈黙 -サイレンス-のネタバレあらすじ3:恐るべき迫害
トモギに戻ったロドリゴが知ったのはイチゾウが捕らわれたということだった。役人はキリシタンをつきだすように村人に言うが、モキチは自分たちは仏教徒であると言う。それでも役人はイチゾウとモキチを含む4人の人質を決めるように言う。この要求はキリシタンたちの間に対立を生むが相談の末によそ者のキチジローが人質の一人になることになる。もし踏み絵を踏まなければならない時はどうするのか。ガルぺは踏んではいけないと言うが、ロドリゴは踏むべきだと言うのだった。やはり四人の人質は踏み絵を踏まされる。彼らは踏み絵を踏むが、役人は彼らの動揺を見逃さない。次に十字架に唾を吐くように言う。唾を吐くことができたのはキチジローだけだった。他の三人は海辺ではりつけにされ、満潮時には彼らの顔より高くなる波にさらされて死んでいくのだった。ロドリゴとガルぺは物陰に潜んで見ることしかできない。
沈黙 -サイレンス-のネタバレあらすじ4:囚われの身
役人たちが山狩りをするという。ガルぺは平戸へ、ロドリゴは五島に逃れることにする。だが、五島でロドリゴが船から下されたのは猫ばかりが住む廃村だった。人里を求めて山を歩いているとキチジローに再会する。彼は再び踏み絵を踏んで棄教したことを悔いているようだった。川の水を飲んでから川に映る顔を見るロドリゴ。一瞬、聖像のイエスの顔が見える。しかし、直後に役人たちに取り囲まれる。キチジローが再び裏切ったのだった。捕縛されたロドリゴは洗礼名モニカと名乗る娘に食べ物をもらい、洗礼名ジュアンと名乗る男とも知り合う。役人に捕まっても彼らはどうして落ち着いているのか。彼らは死んでも天国に行けると信じているのだった。そしてロドリゴは迫害の責任者である長崎奉行井上筑後守と初めて対面する。
長崎に送られた彼らは牢屋に閉じ込められる。筑後守にソフトに棄教を勧められるロドリゴ。ある日、キチジローが自分はキリシタンだと牢の前で騒いで牢に入れられる。そんな弱いキチジローのためでもしかたなく告解をまた授けるロドリゴだった。ロドリゴの目の前で五人のキリシタンが踏み絵を踏まされようとしている。形式的に踏めばいいのだと役人は言うものの、五人とも踏まない。五人の中の一人だけ、ジュアンが唐突に斬首されたことにロドリゴはショックを受ける。そして再びキチジローが出てきて、キリシタンたちに踏み絵を踏む手本を示して釈放されるのだった。
ある日通辞に連れられてロドリゴは海辺に行く。そこで見たのは簀巻きにされて海に投げられようとするキリシタンたちとやはり捕らわれていたガルぺだった。ガルぺが棄教すればキリシタンたちは助かるという。しかしガルぺは自分を身代わりにしろと言って泳ぎだし、簀巻きにされたキリシタンといっしょに死んでしまうのだった。
沈黙 -サイレンス-の結末:師との再会、そして棄教
通辞に連れられてロドリゴは寺に行く。そこでついにフェレイラに再会するが、彼は棄教して日本名を名乗っていた。そしてロドリゴにキリスト教は日本では普及しないことを説く。でも、日本でもかつては多くの信者がいたではないかというロドリゴ。フェレイラは、しかし、彼らは神について理解してはいなかったと言うのだった。夜、いびきのような音に苦しめられるロドリゴ。それは逆さづりにされたキリシタンたちが苦しむ声だった。再びフェレイラが現れて棄教を進める。ロドリゴが棄教を宣言すれば彼らは助かる。フェレイラもまたこうして棄教したのだった。その時、ロドリゴはそれまで沈黙していた神の声を聞く。踏み絵を踏むようにと。こうしてロドリゴも棄教してしまった。ロドリゴはフェレイラに協力してオランダからの輸入品からキリスト教に関係する事物をふるい分ける仕事に携わる。ロドリゴはやがて、岡田三右衛門という男が死んだ後に、彼の名前を引き継いで三右衛門の妻子と江戸で生活することになる。何度も棄教を宣言する文書を書かされ、踏み絵を踏まされる。キチジローは彼の召使となるが、度重なる棄教にもかかわらずキリシタンとしての信仰を捨てきれず、もはや神父ではないロドリゴに告解を頼むのだった。そのキチジローも1667年に踏み絵を踏んだ時に胸に隠しもったものに気付かれて役人に捕まる。ロドリゴは死に際してもキリスト教の信仰の跡を残さなかった。しかしその心の中にあったものは何であっただろうか。
以上、映画「沈黙 -サイレンス-」のあらすじと結末でした。
続いて、より詳細なネタバレあらすじを解説します。
「沈黙 -サイレンス-」感想・レビュー
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遠藤周作の原作は読んだことがありましたが、映像で見るとより衝撃的でした。特に逆さ吊りの拷問シーンは胸が締め付けられました。美しい緑や海の輝き、自然の音色と人間の無慈悲さが対照的で物悲しい気持ちとなります。唯一の神を持たない日本人にとって、一番共感を覚えるのはキチジローの存在のように思います。
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遠藤周作さんの「沈黙」は本で読んでいたので、映画が公開されたとき
映画ではどんな感じなのか興味があり、映画館に見にいきました。
隠れキリシタンのキチジローが仲間を裏切ってしまったり平気で踏み絵を
踏むシーンには心の弱さを感じましたが、それでも本当にキリスト教を
捨てきれず心の中では崇拝し葛藤している姿は切なく思いました。
ラストシーンで、棄教したロドリゴが異国の日本で亡くなったときに
日本人妻が誰にも気付かれないように棺桶にそっと十字架を添えたとき、
ロドリゴのことを本当にわかっていて、ロドリゴを思いやる気持ちと優しさが見る側にも伝わり心を打たれ、涙が出てきました。 -
宗教は常に争いを呼ぶ。
神がいるならなぜ、自分のために人々が戦い、苦しみ、死ぬのを放っておくのか。
神がいるなら性格がよほど悪いと思う。八百万ぐらいがちょうど良い塩梅。
12年間カトリックの中にいたが、常々そう思い、無神論だ。 -
最近の映画にしては、かなり良い部類にはいりますが、それでも最後のオチ(棺の中に十字架が入っている)がきれいすぎるというか、観る側に媚びた印象です。
昔のスコセッシ作品を多数知っている僕からすると、そう感じます。
1970年代であったら、このようなオチにはしないでしょう。現実はもっとドロドロしています。
1971年の日本版のラスト(キリスト教の禁欲の掟から解放され、日本人女性を無我夢中で抱く主人公)のほうが、より人間らしい、醜い部分、本音が表現されています。
(作品自体は、あまり良い出来栄えとは思いませんが) -
キチジローが何を象徴しているのか分からなかったが、人の信仰の強さと脆弱さを表しているのでしょうか。神は沈黙しているのではなく、共に居て一緒に苦しんでいるのですね。自分を踏み、我が身を捨てて愛を行いなさいと言っておられるのですね。
日本史の授業などで習う内容の事ですが、映像化されたものを観ると想像以上に生々しく感じられました。踏み絵のシーンなど観たくないシーンもありましたが、この様な歴史をきちんと知っておくべきだと思います。善とも悪とも言えない、キチジローのキャラになぜか魅力を感じました。どう考えても困った人なのに、どこか憎めない所があり不思議です。