HOUSE ハウスの紹介:1977年日本映画。大林宣彦監督の劇映画デビュー作。夏休みを過ごすために訪れた屋敷で、七人の女子高生が一人ずつ屋敷に食べられていくというコメディタッチのホラー作品。斬新な映像が話題を呼んだ。
監督:大林宣彦 出演:池上季実子(オシャレ)、大場久美子(ファンタ)、神保美喜(クンフー)、笹沢左保(オシャレの父)、宮古昌代(スィート)、南田洋子(羽臼華麗(オシャレの叔母))、ほか
映画「HOUSE ハウス」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「HOUSE ハウス」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
映画「HOUSE ハウス」解説
この解説記事には映画「HOUSE ハウス」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
HOUSE ハウスのネタバレあらすじ:起
8年前に母と死別した女子高生のオシャレは夏休みを父と別荘で過ごす予定でしたが、新しい母親も連れて行きたいという父に反発し行くのをやめます。そして、民宿の都合で予定がキャンセルになった友人六人も誘って、十年ぶりに田舎の叔母宅に行くことにします。叔母は許嫁を戦争で亡くして以来、大きな屋敷で一人で住んでいました。屋敷に着いた七人は、足が悪い叔母の代わりに食事の支度を始めました。食事の後、井戸で冷やしたスイカを取りにいったマックがなかなか戻らないのでファンタが様子を見に向かいました。
HOUSE ハウスのネタバレあらすじ:承
井戸にはマックの姿はなく、ファンタがスイカを井戸から引き上げると、それはマックの生首でした。クンフーが引き上げるとスイカに戻っていたので、皆で食べました。その後スイートが布団部屋で布団に襲われます。皆が駆けつけますがスイートの姿はなく服だけが残されていました。村の駐在所に電話しますがなぜかつながらず、オシャレが警官を呼びに屋敷を出て行くと、他のメンバーが出て行くのを阻むかのように屋敷の窓や扉、門がすべてひとりでに閉じられます。
HOUSE ハウスのネタバレあらすじ:転
メロディが弾くピアノを皆で聞いていると、オシャレの歌声が聞こえてきたのでクンフーとガリが探しに行っている間に、ファンタの目の前でメロディはピアノに食べられます。クンフーとガリが見たのは花嫁衣裳に身を包んだオシャレと、大時計の中のスイートの死体でした。ようやく屋敷が普通でないと気づいたクンフーとガリはファンタとともに部屋にたてこもります。そこに現れたオシャレが、叔母さんは実はとうに死んでおり、嫁入り前の娘が来ると皆食べてしまうのだ、と告げます。どうやらオシャレは叔母さんに憑依されているようです。
HOUSE ハウスの結末
屋敷中のあらゆるものが三人に襲いかかる中、オシャレと戦う途中でクンフーが壁の猫の絵に一撃をくわえた後、電灯の傘に食べられます。猫の口から血が噴き出し、ファンタとガリは畳に乗って血の海を漂います。やがてガリは血の海にのまれてしまいます。一人残されたファンタはオシャレに助けを求めます。オシャレはファンタを胸に抱きます。翌朝、オシャレの父の婚約者が一人で屋敷に訪れます。新しく母になる彼女を、オシャレは屋敷に招き入れます。オシャレは、叔母と、屋敷と一体になったのです。
「ハウス」はシュールでハイテンションなジェットコースタームービーであり、ノスタルジックでセンチメンタルな幻想譚である。更に言えば「ハウス」はポップでキッチュでシュールなアート作品の見本市でもある。お年頃の多感な美少女たちは遠足のバスに乗って絵本の世界を抜け出て新たなる幻想世界に迷い込む。まるで「不思議の国のアリス」のように。この作品には77年当時の最新の特殊効果を駆使した実験的な映像がふんだんに盛り込まれている。具体的にはクロマキー合成をほぼ全ての場面で多用している。中盤から後半にかけては映像及び画面が著しく入れ替わり、そのハイテンションなエナジーに眩惑・圧倒される。オモチャのような骸骨が愛嬌たっぷりに踊る。どう見てもお洒落で可愛いペルシャ猫が実は「化け猫」だと言う。埃をかぶった銘品の「ベヒシュタイン」が人食いピアノだったり。血に飢えた柱時計が「ガッチャガチャ」と蠢く。まるで夢の世界の出来事のような酩酊感と、雑誌から切り抜きしたような独特のチープ感がこの作品の最大の魅力となっている。或いは「お化け屋敷」や「ビックリ箱」若しくは「万華鏡」を覗くような目が眩むばかりの高揚感に溢れた作品なのである。またその一方でソフトフォーカスを用いた幻想的な映像美は「ノスタルジック」であり、我々が少女に抱く「センチメンタル」な思い入れそのものでもある。この一種独特で幻想的なノスタルジーはデビッド・ハミルトンの「ビリティス」(ハウスと同時期の77年の作品)にも通ずる。生涯に亘って少女を撮り続けた写真家デビッド・ハミルトンのソフトフォーカスの美学と、ノスタルジックでリリカルな抒情性が「ハウス」と共通しているのである。88分の尺に色んな要素をガッツリと詰め込んでいるのでこの映画を語ろうとすれば多弁にならざるを得ない。映画の中のとびっきりキュートでセクシーな美少女一人ひとりの動きから目が離せない。もぎたての新鮮な果実のような可愛すぎる少女たち。そして少女のファンタ(大場久美子)が「生首」にお尻をガブリとかじられて「キャー!」っと。この辺の「ヴィヴィッド」な感覚が斬新で心憎いのだ。このヴィヴィッドな感性こそがCM界の巨匠として活躍してきた大林宣彦の真骨頂なのである。そして大林のそのヴィヴィッドな感性と感覚によって「ハウス」は支えられているのだ。私の深読み(妄想)でこの映画を読み解くと、「ハウス」と言う作品は少女が成人女性へ変貌を遂げる「通過儀礼の象徴」なのではないか。つまり少女が一人ずつ消えていき「ハウス」によって試される。映画のラストで洪水になって漂流する場面があるが、あの水はお母さんの胎内の羊水なのであるまいか。つまり「ハウス」は実はお母さんであり、少女はお母さんの胎内に吸収されて再び大人に造り変えられる。この映画は少女が「ハウス」に食べられて終わるのだが本当は後日談があったのだ。っと言う「シネマギーク」の妄想を誘うほどにこの映画は懐が深いのである。私が初めて18歳で観てから既に45年の歳月を経たが、今でも「ハウス」と言うテーマパークで遊ばせてもらっている。この偉大なる「映画藝術」を創造した名匠大林宣彦と、彼の愛娘の「ハウス」に心からの敬意と感謝を捧げたい。