沈黙 -サイレンス-の紹介:2017年アメリカ映画。遠藤周作の小説「沈黙」を、マーティン・スコセッシ監督が映画化。キリシタン弾圧の中で棄教したとされる師、フェレイラを捜すために、同僚のガルぺと共に日本に密航した宣教師ロドリゴ。彼の前に繰り広げられるおぞましいキリシタン迫害。しかし、神は「沈黙」を続けるままである。
監督:マーティン・スコセッシ 出演:アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゴ神父)、アダム・ドライヴァー(ガルペ神父)、浅野忠信(通辞)、窪塚洋介(キチジロー)、リーアム・ニーソン(フェレイラ神父)、イッセー尾形(井上筑後守)ほか
映画「沈黙 -サイレンス-」ネタバレあらすじ結末と感想
映画「沈黙 -サイレンス-」のあらすじをネタバレ解説。予告動画、キャスト紹介、感想、レビューを掲載。ストーリーのラストまで簡単に解説します。
沈黙 -サイレンス-の予告編 動画
映画「沈黙 -サイレンス-」解説
この解説記事には映画「沈黙 -サイレンス-」のネタバレが含まれます。あらすじを結末まで解説していますので映画鑑賞前の方は閲覧をご遠慮ください。
沈黙 -サイレンス-の紹介
正直、ディスカウント・ジャパン、つまり反日映画になっているのではないか? と心配してましたが、意外にも良作だったと言えるかもしれません。「アンブロークン」のように日本兵が米軍捕虜を虐待するという誇張した映画になりかねない作品を、日本の役人にも信念があり、それを受け入れられない切支丹がいたずらに命を落としていく、信仰とは何かを問いかける作品になっています。でも1つだけ言わせてもらうと、ポルトガルやスペインは、コロンブスが奴隷商人だったようにカトリックの宣教師たちも人身売買に加担してたからこそ、秀吉と家康はキリシタン禁止令を出し、島原の乱(1637年)が起こったのです。あと、物語は1633年と1640年以降で、その当時は、マウンダー極小期と言って、太陽黒点が少なく、小氷河期と言われる時代です。桶狭間の戦いは1560年6月12日なのに、雹が降っていた記録があります。つまり、食糧難であり、少しでも食い扶持を増やすために、領土を広げる戦国時代になっていたのです。そこに南蛮人がやってきて、東南アジアや南米に日本人を奴隷として売っていたら秀吉や家康も労働人口が減ってしまうから、切支丹禁止令を出すわけです。ちなみにオランダはプロテスタントなので、長崎の出島で、貿易が出来ていたわけです。この辺の事情は描かれていません。(大坂夏の陣の屏風図でも奴隷商人に売られている武士の絵が残っています。)
1500年代に、宗教改革があり、プロテスタントの出現に脅威を感じたカトリックは海外布教をして信徒を増やさないと絶滅の危機もあったという恐怖が、イエズス会の蛮行を生んだとも考えられますが、今回の映画は、その犠牲者の話です。だからキャッチコピーも内容的に本来「神よ、なぜ沈黙されているのですか」でいいはずなのに、何かに遠慮して「なぜ弱き我らが苦しむのか」と訳の分からない文言になっています。主人公のロドリゴが自分のことしか考えてない傲慢さを意味しているのかもしれませんが。それでも名前が分かるだけで4千人が殺され、推定で4万人が無駄死にしたと言われています。(天草・島原の乱の3万人は除いた数字です。)
そもそもキリスト教は、中世までは、他宗教・多民族は奴隷にしてもいいという暗黙の了解があります。大体、原始キリスト教は、元ユダヤ教徒でアラム人のナザレのイエス(ヨシュア)が作った宗教であり、妻のマグダラのマリアもいました。なのに、ローマ人が処刑して、蘇えらせ、男性優位の得体のしれない一神教に変質していきました。クリスマスは本来「冬至」であり、紀元一世紀の宗教の多くには蘇りが教義に組み込まれます。ナザレのイエスの誕生は秋頃です。なので、クリスマスは聖霊降誕日と言われています。所詮、白人が作りかえた侵略宗教。中東への十字軍は現代もひきずっています。他宗教は悪魔にし、他の価値観を認めない。現在も酒や煙草、性的創作物への弾圧もそうです。キリスト教には寛容の精神がありません。敵か味方かしかないのです。どこが「汝の敵を愛せよ」? 長崎の爆心地500m地点に1597年に殉教した日本26聖人を祀った大浦天主堂があろうかお構いなしだし、現代の空襲でも教会や病院を襲い続けています。
個人的な宗教への偏見はともかく、価値観のぶつかりあいを描いた映画です。160分ありますが、そんなに時間は感じません。それでも最期の方は、ややダレますが。少なくともマーティン・スコセッシ監督は、今回の映画を20年温めていて、2011年から製作に入るはずが、「ヒューゴの不思議な冒険」で訴訟があり、2014年からの製作になります。主要な撮影自体は2015年1~5月に台湾で行なわれています。2015年「野火」の塚本晋也監督もモキチとして出演してるせいか、森の中が、ややジャングルっぽくも感じたり。スコセッシ監督は、「グッド・フェローズ」(1990年)で英国アカデミー賞ほかを受賞しています。「沈黙」という映画は1971年に日本でも作られていますが、自然の描写が多かったそうなので、スコセッシ監督は、畳の高さの演技を中心に撮ったそうです。比較的、原作に忠実だとか。後、主役のロドリゴを演じたアンドリュー・ガーフィールドは、「アメイジング・スパイダーマン」のピーター・パーカー(スパイダーマン)を演じた人です。劇中のほとんどが長髪と髭面ですが、ラストシーンで見覚えのある顔になります。外人の再現ドラマ並の演技という前評判もありましたが、個人的にそこまで酷いとは思いませんでした。時代劇だし、拷問シーンもそこまでグロくないので、それなりの興収にはなりそうです。フェレイラと井上筑後守は実在の人物で、ロドリゴのモデルはジュゼッペ・キアラというイタリアの宣教師です。棄教後は江戸で岡本三右衛門を名乗っています。
詳細あらすじ解説
沈黙 -サイレンス-の詳細ネタバレあらすじ:1
暗闇の中、蝉しぐれが鳴り響き、唐突に途絶えます。画面が見えると、噴煙の中、さらし首が2つ見え、雲仙の火口の池から熱湯をくみ上げ、ひしゃくに開いた穴からシャワーのように切支丹(キリシタン)たちに振りかけます。それを見ているフェレイラ神父が辞めろと言いますが、拷問は続けられます。それは1633年の出来事。ポルトガルで、ヴァリニャーノ院長が、ロドリゴ神父とガルペ神父に手紙を読み聞かせています。その手紙は7年をかけて、オランダの商人の手によって届けられたものです。さらにヴァリニャーノ院長は信じられないことを語りました。フェレイラ神父が棄教したというのです。フェレイラ神父は2人の師でした。ロドリゴは、フェレイラの安否を確かめたいとヴァリニャーノに訴え出ます。ガルペも同じ気持ちです。2人は日本に向かうとにしました。それがイエズス会が日本に送る最期の宣教師となります。1640年、2人は中国人の仲介で、キチジローという日本人の案内人をえますが、常に酔っぱらい信用できるか分かりません。ともあれ、密航し、トモギ村に上陸します。洞窟で隠れていると、キチジローは消え、代わりに村人が現れました。キチジローが連れてきたのです。彼らは切支丹です。しかし、司祭はおらず、イチゾウが洗礼するだけの日々でした。だから、ロドリゴとガルペをあがめるのです。炭焼き小屋で潜伏することになります。それでも、村人が教義を勘違いしてることに気づき、不満です。そして、数日、小屋で暮らすのにも飽きました。ロドリゴとガルペは周囲に誰もいないことを確認して、日光浴をします。でも、誰かが見ていました。夜になり、誰かがやってきました。「パードレ(神父様)」と呼びかけられますが、約束の4回ノックがないので、ガルペが止めます。それでも帰ろうとする足跡を我慢できず、ロドリゴは出てしまいました。彼らは隣村の者で、キチジローの名前を出します。結果、ロドリゴがその村に行く事にしました。ガルペはトモギ村の者に留まってくれと頼まれたのです。(本来、ポルトガル語での会話でしょうが、大体が英語と日本語の会話です。)
沈黙 -サイレンス-の詳細ネタバレあらすじ:2
船で連れられてきたのは五島列島でした。そこにはキチジローの顔もありました。ロドリゴは歓迎されましたが、彼らは十字架を欲しがり、ロドリゴは、十字架の数珠まで配りました。気持ちは分かりますが、物質に身をゆだねるのは、悪い傾向です。そして、キチジローにも与えようとしますが、彼はその資格がないと逃げてしまいました。キチジローは踏絵を行ない、棄教していたのです。家族は焼き殺され、黙って見ていたと、告解(コヒイサン)します。ロドリゴは許します。ある日、イチゾウが捕まったと知らせが入ります。ロドリゴは急いで。トモギ村に戻ります。幕府の役人は、イチゾウを連行せず、他に切支丹がいないか、名乗り出た者には信徒には銀100枚、修道士には銀200枚、神父には銀300枚を渡すと言い残して、去ります。しかし、名乗り出なければ、イチゾウ他3人も連行されます。ロドリゴは自分が名乗り出ようとしますが、村人はかばいます。しかし、最後の1人が決まらず、キチジローが無理やり選ばれました。モキチは、「踏絵をする時、私はどうすればいいか」とロドリゴに聞きます。ロドリゴは「踏みなさい」と答えますが、ガルペは否定します。モキチは、2人が来るまで、祈っていた十字架をロドリゴに託しました。幕府の役人がやってきて踏絵が行なわれます。4人共踏みました。しかし、役人は踏む前に躊躇したことを見逃さず、今度は「十字架に唾を吐きかけよ」と言います。キチジロー以外は出来ませんでした。モキチとイチゾウ、そしてもう1人は、磔刑にされます。それも満潮の波打ち際で、年長のイチゾウは間もなく絶命し、もう1人も息を引き取り、若いモキチは、4日、聖歌を歌い続けました。遺体は、祀られないように、荼毘に付されますが、海水で濡れているので、煙ばかりが出るのでした。
沈黙 -サイレンス-の詳細ネタバレあらすじ:3
ロドリゴは、この頃から、神が「沈黙」しているのにイラだっていました。2人が、このまま村に留まるのは危険です。ガルペは平戸に、ロドリゴは五島に向かいます。しかし、村は荒れ果て、猫以外、誰も居ません。山に入ると、焚火の後がありました。わずかでも暖をとり、足跡を辿ります。追いつくと、それはキチジローでした。キチジローもまた追跡者がいると警戒していたのです。しかし、ロドリゴは殉教したイチゾウやモキチと違って、あっさり棄教したキチジローに不信感を持っていました。でも、空腹だったので提供された焼き魚を食べますが、塩辛く、喉が渇きます。キチジローは慌てて水を汲みに行きますが、ロドリゴが倒れているのに驚き、トックリを落としてしまいます。川に連れて行かれ、漸く喉を潤しますが、その時、ヒゲも髪も伸び放題の自分の姿を水面に見て、その中にキリストの顔を見るのでした。つい大笑いしていると、いつの間にか長崎奉行の役人に囲まれていました。抵抗することもなく捕まります。理由はすぐ分かりました。キチジローが密告したのです。「パードレ、許してくれ。コヒイサンする。」と土下座しています。役人が銀300枚を渡しています。ユダでさえ、銀30枚です。ロドリゴが連行された場所に何人かの百姓いや切支丹がいました。切支丹たちは「死ねばパライソ(天国)に行けるんでしょ?」と言っています。最後の審判までは眠りにつくだけなので、すぐにはいけません。でも、それだけが切支丹たちの希望なので否定も出来ません。年老いた役人がやってきて、切支丹たちを連行し、ロドリゴだけを残し流ちょうな英語で話しかけます。(実際はポルトガル語)棄教を勧めますが、ロドリゴは当然従いません。連行され、牢に入れられます。そこに通辞(通訳)がやってきました。彼もまた棄教を勧めます。でも、彼の感触では、ロドリゴにこれまでの宣教師と違い、転ぶ(棄教する)と判断したのです。
沈黙 -サイレンス-の詳細ネタバレあらすじ:4
ロドリゴもまた、切支丹と同じ、牢に移され、時々、ミサを行います。そこにキチジローがやってきます。「俺も切支丹だ」と牢番に食い下がり「お前は違うだろ」と言われますが、牢に入ってきてまた告解するのです。「金が欲しかったんじゃない。脅かされたんだ。弱い人間はどうすればいいんだ」流石のロドリゴも見下していました。キリストは、こんな悪としても美くしない輩を許すのでしょうか?悩みながらも形だけの懺悔の儀式をします。切支丹は雨の中も作業をさせられます。やめさせようとしても役人は聞きません。再び、あの年老いた役人と面会しました。ロドリゴは「イノウエ様と面会させろ」と言いますが、その老人こそ、井上筑後守でした。映画では説明されませんが元キリシタンなので、ポルトガルの文化やカトリックに通じているようです。5人のキリシタンの踏絵が行なわれます。5人共踏めず、1人だけ残されました。談笑しているだけなので、安心して背中を向けていると突然叫び声が聞こえました。首切り役人がやって来て、いきなり首をはねたのです。ロドリゴは何も分かっていなかったのです。
沈黙 -サイレンス-の詳細ネタバレあらすじ:5
次の日に僧侶の着る十徳を着せられ、筑後守とお茶をします。その時、平戸の殿さまが4人の妻がいて妻達が争うので、全員追いだしたという話を聞かされます。ロドリゴもよかったと思いましたが、それは比喩でした。4人の妻はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスを指していたのです。ロドリゴは尚もポルトガルだけを選べばいいと食い下がりますが、日本には仏教があります。カトリックは子を産めない女(石女)。日本は沼でカトリックは根付かない、この意味をよく考えなさいと諭されてもロドリゴは聞き入れませんでした。次の日、武士の格好をさせられ、浜辺に行きます。そこにはガルペと切支丹の姿が見えました。切支丹は蓑を巻かれ、手が動かせません。船に乗せられ、次々に海に突き落とされます、ガルペは飛び込み、助けようとしますが、棒で頭を押さえられ、溺死します。ロドリゴは抵抗しますが何もできませんでした。それどころか、ガルペにはロドリゴは棄教したと教えられ、最後の宣教師として死んだのです。通辞は、「お前には覚悟がない」と言われ、無力感に苛なまれるのです。
沈黙 -サイレンス-の詳細ネタバレあらすじ:6
数日後、今度は寺に連れて行かれます。そこで、懐かしのフェレイラに会いますが、彼は棄教し沢野忠庵と言う名前になり、妻子もいました。彼は日本で、天文学や医学書を書き、そしてカトリック批判の「偽証録」を書いていたのです。ロドリゴは「裏切りだ」と食い下がりますが、フェレイラは日本人は神を理解できず、ザビエルは大日(太陽)と教えたのです。つまり、日本では、毎日、神は現れるのです。だから、日本人に理解できないというのです。ロドリゴは受け入れられず「悪魔よ、去れ」とまで言います。キチジローは、さっさと踏絵をして、また出ていきました。さて、筑後守は、「今夜ロドリゴは転ぶ」と予言をします。フェレイラも棄教した逆さ吊りをするからです。ロドリゴはすんなり受け入れますが、なかなか実行されません。それどころか、いびきの中、うめき声が、隣室から聞こえてきます。ロドリゴは牢の中に、フェレイラ達、他の神父が書いた「神よどこにいるのか」という壁の文字を見、「番人が寝てるからうめいている病人を助けてくれ」と叫びます。通辞がやってきて鼻で笑います。そのいびきは、逆さづりにされた4人の切支丹の呼吸だったのです。頭に血が上らないように、首に傷をつけられ、血を抜かれるため、そんな呼吸になるのです。フェレイラにも首に傷がありました。そのフェレイラが最後に言います。「彼らは殉教したのではない。お前を助けるために死んだのだ。今ならお前にも沈黙する神の代わりに救える命がある。」既に、4人の切支丹たちは「転ぶ」と言っていました。でも助けられないのは、ロドリゴ次第だからです。
沈黙 -サイレンス-の結末
ロドリゴの前にフェレイラが踏絵を置きます。その時、ロドリゴは神の声を聴きました。「踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ」通辞は「形だけでよい」と囁きます。ロドリゴはキリストの顔を踏み、その場でひれふし、謝るのです。かくして、棄教したロドリゴは髭を切りは、出島でフェレイラと一緒に、ご禁制の品を取り締まります。十字架模様の焼き物や、マリアをモチーフの像や絵などです。袋の中から十字架が出てきたので、商人が連行されました。フェレイラが死んだ男の名前と妻子を受け継いだように、ロドリゴも江戸で、後藤某を名乗ります。そして時々、棄教した文書を書かされます。キチジローが訪ねてきました。彼はまた告解するのです。ロドリゴはもう棄教神父なので、懺悔を聞けません。それでも頭を下げるキチジローの懺悔を受け入れるのです。棄教したとはいえ、時々踏絵が行なわれます。1666年、キチジローもロドリゴも踏みます。でも役人は見逃しませんでした。キチジローのお守りを改めると、マリアの顔が書かれた絵が出てきました。連行され、その後は知れません。1682年にロドリゴが死ぬまで、監視は続きました。仏式で火葬される前、妻は守り刀を持たせます。その際、モキチから譲り受けた十字架を一緒に入れたことまでは役人も見抜けませんでした。エンディングは虫、蛙、波、雨、風、雷の自然音で終わります。
以上、映画「沈黙 -サイレンス-」の詳細あらすじ解説でした。
「沈黙 -サイレンス-」感想・レビュー
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遠藤周作の原作は読んだことがありましたが、映像で見るとより衝撃的でした。特に逆さ吊りの拷問シーンは胸が締め付けられました。美しい緑や海の輝き、自然の音色と人間の無慈悲さが対照的で物悲しい気持ちとなります。唯一の神を持たない日本人にとって、一番共感を覚えるのはキチジローの存在のように思います。
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遠藤周作さんの「沈黙」は本で読んでいたので、映画が公開されたとき
映画ではどんな感じなのか興味があり、映画館に見にいきました。
隠れキリシタンのキチジローが仲間を裏切ってしまったり平気で踏み絵を
踏むシーンには心の弱さを感じましたが、それでも本当にキリスト教を
捨てきれず心の中では崇拝し葛藤している姿は切なく思いました。
ラストシーンで、棄教したロドリゴが異国の日本で亡くなったときに
日本人妻が誰にも気付かれないように棺桶にそっと十字架を添えたとき、
ロドリゴのことを本当にわかっていて、ロドリゴを思いやる気持ちと優しさが見る側にも伝わり心を打たれ、涙が出てきました。 -
宗教は常に争いを呼ぶ。
神がいるならなぜ、自分のために人々が戦い、苦しみ、死ぬのを放っておくのか。
神がいるなら性格がよほど悪いと思う。八百万ぐらいがちょうど良い塩梅。
12年間カトリックの中にいたが、常々そう思い、無神論だ。 -
最近の映画にしては、かなり良い部類にはいりますが、それでも最後のオチ(棺の中に十字架が入っている)がきれいすぎるというか、観る側に媚びた印象です。
昔のスコセッシ作品を多数知っている僕からすると、そう感じます。
1970年代であったら、このようなオチにはしないでしょう。現実はもっとドロドロしています。
1971年の日本版のラスト(キリスト教の禁欲の掟から解放され、日本人女性を無我夢中で抱く主人公)のほうが、より人間らしい、醜い部分、本音が表現されています。
(作品自体は、あまり良い出来栄えとは思いませんが) -
キチジローが何を象徴しているのか分からなかったが、人の信仰の強さと脆弱さを表しているのでしょうか。神は沈黙しているのではなく、共に居て一緒に苦しんでいるのですね。自分を踏み、我が身を捨てて愛を行いなさいと言っておられるのですね。
日本史の授業などで習う内容の事ですが、映像化されたものを観ると想像以上に生々しく感じられました。踏み絵のシーンなど観たくないシーンもありましたが、この様な歴史をきちんと知っておくべきだと思います。善とも悪とも言えない、キチジローのキャラになぜか魅力を感じました。どう考えても困った人なのに、どこか憎めない所があり不思議です。